サクサク(サゴ椰子澱粉) |
平成十八年三月十七日 番外編 |
東部ニューギニア戦の記録に必ずと言ってよいほど出てくる食べ物があります。それがサゴ椰子の木から取れる澱粉「サクサク」です。これはサゴ椰子の木の髄を細かく砕き、よく揉み解しながら水にさらして容器に沈殿させることで採集されます。サゴ椰子の分布は東南アジアから太平洋諸国一帯に広がりますが、東部ニューギニア戦の舞台となったウエワクやセピック方面でも、現地民の伝統的な主食とされていました。 昭和19年4月、連合軍のホーランジャ、アイタぺ上陸により、ウエワクや山南地区に孤立した日本軍は一切の補給を絶たれ、そのうえ、相次ぐ空襲と、悲惨きわまるアイタぺへの総攻撃によって、手持ちの弾薬、食糧の殆どを消耗してしまいました。日本軍に残された手段は、現地人の集落に分散し、その協力の下で食糧の供出を受ける「現地自活」しかありませんでした。 山南地区の村々では、タロ芋(ピジン語でタロ)、ヤム芋(同、ヤム)、サツマイモ(同、カウカウ)などの芋類の他、サゴが主食とされていましたので、村々に入った日本軍は、彼らと同じ物を食べて生活することになります。とくにサクサクは、村々からの供出に頼るだけではなく、村と日本軍の話し合いにより、部隊ごとにサゴ椰子の割り当てを受け、それを切り倒してサクサクを生産することも行なわれました。また、前線で戦う部隊は「サクサクウォーク」(サゴ澱粉採集作業)ができないことから、村人によってサクサクや芋が届けられました。 サクサクには独特の匂いがあり、マラリア患者など体が衰弱した人には食べにくいという欠点もあったものの、以後、終戦、そしてムッシュ島の収容所に入るまで、サクサクは多くの日本兵の命の綱となりました。 それと同時に、食べ方にも工夫がなされ、お好み焼き風に焼いてみたり、さらには「うどん」にしてみるなど、色々バリエーションが出てきます。しかし、多くの将兵は、「ジャングル春菊」やら雑草、きのこ、虫、その他あらゆるものを入れて葛湯か雑炊のようにして命を繋いだといいます。 また、山南地区の現地人は当初、日本軍と友好的な関係をもち、オーストラリア軍との板ばさみになりながらも、最後まで日本軍を助けた村々が多数ありました。しかし、敗れたりとはいえ、なお数万を擁する日本軍の存在は、住民の大きな負担でもあったのです。 それを一番知っているのは、ニューギニア生き残りの勇士達といえましょう。だから多くの生き残りのかたがたは、今もニューギニアへの感謝の気持ちを持ち、それを行動でしめそうとする人も多くいらっしゃいます。 ともあれ、「サクサク」のおかげで、そしてニューギニアの人々のおかげで、1万名弱にのぼる我々の父祖が助かったことを、忘れてはならないでしょう。 なお、現在サクサクは、小児アレルギに良い食品として注目され始めているようで、サクサクを加工した食品が、日本でも販売されています。もし、入手してみたいという方は、下記のHPを御覧になるとよいでしょう。 辻安全食品 http://www.tsuji-a.com/tuji/ また、当事の山南地区における「現地自活」と、サクサク供出の様子については満川元行『戦記 塩 東部ニューギニア戦線・ある隊付軍医の回想』戦誌刊行会、昭和59年を参照。この本は非常に優れた、素晴らしいドキュメントです。 |
パプアニューギニア、マダンのローカルマーケット。ここでもサゴ椰子澱粉が売られていました。 |
中央の葉っぱ包みがサゴ椰子澱粉(サクサク)。概ねこうした葉包みで売られています。ピジン語でワン・パッシム(ひと包み・・・1本)5キナ。日本円にして185円ほど。 |
サゴ椰子澱粉の塊、一寸湿めっぽいものの、触るとつるつるとした粉が指に付き、澱粉であることが実感されます。また、独特の匂いもします。因みにこのサクサクはウエワクのローカルマーケットで売られていたものです。 |
サクサクを水で溶いた状態。 |
水溶きしたサクサクを、フライパンで焼いてみます。戦時中は、飯盒や、その中盒で焼いたそうです。 |
焼きあがったサクサク。存外香ばしく、また、薄めに焼けば匂いも気になりません。これに椰子のコプラを刻んだものをかけ、鳥肉の一片も添えてあれば、現地のピジン語で言うところの「ナンバーワン・カイカイ」(ご馳走)であったといいます。 |
葛湯状態にしてみたサクサク。将兵の戦記で「ターニム」「タニタニ」などと呼ばれたものは、概ねこんなもののようです。実際には、これにあらゆる雑草や食べることが出来ると考えられたものが混ぜ込まれ、しかも、塩の補給がないことから、これを味付けなしのまま食べることも普通であったといいます。 筆者はこれを食べてみましたが、食感は葛湯と同じです。しかし、やはり匂いが気になり、食欲がわきません。しかし、当事は飢えに迫られ、飯盒半分のサクサクを盗んで銃殺にされてしまった兵隊さんも居たのです。 |