社宝 山本帯刀の佩刀
社宝 山本帯刀の佩刀(長岡市郷土史料館寄託)
慶応4年(1868)、戊辰戦争がはじまると長岡藩は官軍・旧幕側にもつかない中立を望みましたが、官軍に受け入れられず、やむなく奥羽越列藩同盟(幕府軍)側につき、官軍と戦うことになりました。
高い士気とガトリング砲(機関銃)などの優れた装備を持つ長岡藩兵は同盟軍の主力として活躍し、官軍と互角の戦いをくりひろげました。このとき、山本は長岡藩の第一大隊長として、河合継之助の指揮下に、各地で官軍を撃破しました。
7月、長岡城と新潟が陥落し、北越の同盟軍戦線が崩壊すると、山本大隊は会津領へ撤退し、なおも抗戦を続けましたが9月8日、会津若松近郊の飯寺の戦いで宇都宮藩兵などから成る官軍に包囲されて全滅、山本は捕らえられてしまいました。山本の人物を惜しんだ官軍側は降伏による助命を勧められましたが、山本は「藩主の命により戦っているが、敵に降れという命は受けていない」として断固拒絶し、慫慂と斬らました。その後、山本家は一時断絶しましたが、後年、旧長岡藩士族、高野五十六がその家名を継ぎました。その人こそ、後の聯合艦隊司令長官、山本五十六元帥です。
この刀は、処刑の直前に山本から軍用金とともに宇都宮藩に提供されたものでありました。宇都宮藩士の戸田三男に伝来し、後に当神社に納められたものです。実物は保存の関係上、現在、山本の故郷にある長岡市郷土史料館に寄託、展示してあります。
また、宇都宮市六道にある戊辰役戦士の碑は、この刀とともに宇都宮藩に預けられた長岡藩軍用金を用いて、戸田三男ら旧・宇都宮藩士や地域住民によって、旧幕府、同盟兵を弔うために明治7年(1874)に建立されたものです。
戊辰役戦士の碑(宇都宮市六道町)