92式飯盒(二重飯盒)
92式飯盒(二重飯盒)
この飯盒の持ち主であった小平義二氏は弓兵団(第33師団)に入隊後、下士候補を命ぜられマライ半島南方総軍下士官候補者隊で一年間の下士官教育を受けた後に原隊に復帰し、インパール作戦に参加することになった。その際に上官の加藤班長の勧めによって、それまで彼が持っていた新品同様の一重飯盒と、中支やビルマの作戦中に使い込まれた班長の二重飯盒(九二式飯盒)とを取り替えた。以後、この飯盒はインパール作戦中に炊事のみならず、スコールで水びたしになった壕の水の汲み出し、更には戦友の骨を作る際には、この外盒で骨を焼いて持ち帰るなど大いに活躍し、氏はこの飯盒のおかげで生き残ることができたと考え、当神社に寄贈していただくまで家宝と思い大切にしておられた物です。
飯盒の由来(小平義二氏筆)
この飯盒は会津若松で弓兵団編成後、補充兵として召集兵で私入隊当時下士官で班長であった。私は次男のため命令にて下士候補を命ぜられマライ半島南方総軍下士官候補者隊に第一期生として一年間教育受け帰隊しインパール作戦開始で私も伍長(分隊長)として第一線に出陣することに成り大隊砲の加藤班長は私を呼び、お前はこれから大隊砲の下士官として第一線に出陣するのでおれの飯盒を取替へて持って行けと云はれ、私の九九式で一重新品同様だが加藤班長のは中支ビルマ作戦で戦火を何十回くぐりて来たごつごつした二重飯盒で私を思って云ってくれたと思ひ取り替えインパール作戦迫撃砲の分隊長として出陣し兵隊はほとんどが一重飯盒でごはんのみ味つけおかずは私の外盒で使用した先ぱいの云われた事は本当に良かったと思い当時は前進前進の毎日最後の陣地はインド国アッサム州マニプール県インパール二九二六高地昭和十九年五月二十日夜出撃し二十八日迄三回水(まま)飯しか出来ずハゲシイスコールが三回有り第一第二第三のゴウの中に位置したため迫撃砲の陣地は山頂より流れ来る大水で陣地横穴迄水でいっぱいでも(他の兵隊が持っている)一重飯盒(で)は(底にのこっているわずかのごはんが流れるのが)もったいなくてすてられず(水をかいだすことができなかったが、小平氏は二重になった飯盒を持っていたので)二重飯盒の外盒で其の陣地の水を外にかいだしたこの時程加藤班長を有難く思った事はない。又戦友の骨を外盒で連合軍の砲弾の火薬で焼いて持帰った事と本当に役に立った飯盒で有った私の家宝と思い本日迄大切にしておいた物です。加藤班長はパコイの中巣(ママ)で戦死された墓参に行った時現地に行ったが中巣が一変し不明にて参加者一同で花タバコを上げめい福を祈った。此の飯盒のため私たち二名は無事で帰国できた。(壬生町福和田、小平義二)
この飯盒は会津若松で弓兵団編成後、補充兵として召集兵で私入隊当時下士官で班長であった。私は次男のため命令にて下士候補を命ぜられマライ半島南方総軍下士官候補者隊に第一期生として一年間教育受け帰隊しインパール作戦開始で私も伍長(分隊長)として第一線に出陣することに成り大隊砲の加藤班長は私を呼び、お前はこれから大隊砲の下士官として第一線に出陣するのでおれの飯盒を取替へて持って行けと云はれ、私の九九式で一重新品同様だが加藤班長のは中支ビルマ作戦で戦火を何十回くぐりて来たごつごつした二重飯盒で私を思って云ってくれたと思ひ取り替えインパール作戦迫撃砲の分隊長として出陣し兵隊はほとんどが一重飯盒でごはんのみ味つけおかずは私の外盒で使用した先ぱいの云われた事は本当に良かったと思い当時は前進前進の毎日最後の陣地はインド国アッサム州マニプール県インパール二九二六高地昭和十九年五月二十日夜出撃し二十八日迄三回水(まま)飯しか出来ずハゲシイスコールが三回有り第一第二第三のゴウの中に位置したため迫撃砲の陣地は山頂より流れ来る大水で陣地横穴迄水でいっぱいでも(他の兵隊が持っている)一重飯盒(で)は(底にのこっているわずかのごはんが流れるのが)もったいなくてすてられず(水をかいだすことができなかったが、小平氏は二重になった飯盒を持っていたので)二重飯盒の外盒で其の陣地の水を外にかいだしたこの時程加藤班長を有難く思った事はない。又戦友の骨を外盒で連合軍の砲弾の火薬で焼いて持帰った事と本当に役に立った飯盒で有った私の家宝と思い本日迄大切にしておいた物です。加藤班長はパコイの中巣(ママ)で戦死された墓参に行った時現地に行ったが中巣が一変し不明にて参加者一同で花タバコを上げめい福を祈った。此の飯盒のため私たち二名は無事で帰国できた。(壬生町福和田、小平義二)
インパール作戦
昭和19年、ビルマ戦線の日本軍は、圧倒的な物量を誇る英印軍に押されはじめていた。そうした状況を打開するべく、3月、インド領のインパールへの攻勢(インパール作戦)を開始した。当初、日本軍は優勢な英印軍を撃破し、インド領のコヒマを占領。インパールを包囲する勢いを見せたが、敵のねばり強い反撃と、補給の途絶によって目的を達成することができぬまま、7月、ビルマに向けて総退却を開始した。この作戦における日本側の参加兵力10万名中、約3万が戦死、約2万が負傷した。この作戦の失敗をきっかけとして、ビルマ戦線はドミノ的に崩壊していった。この作戦に参加した弓兵団(第33師団)には、多数の栃木県民が参加していた。多くの県民がインパールの戦場と、その後の退却路(白骨街道といわれた)で倒れられたことを忘れてはなりません。
昭和19年、ビルマ戦線の日本軍は、圧倒的な物量を誇る英印軍に押されはじめていた。そうした状況を打開するべく、3月、インド領のインパールへの攻勢(インパール作戦)を開始した。当初、日本軍は優勢な英印軍を撃破し、インド領のコヒマを占領。インパールを包囲する勢いを見せたが、敵のねばり強い反撃と、補給の途絶によって目的を達成することができぬまま、7月、ビルマに向けて総退却を開始した。この作戦における日本側の参加兵力10万名中、約3万が戦死、約2万が負傷した。この作戦の失敗をきっかけとして、ビルマ戦線はドミノ的に崩壊していった。この作戦に参加した弓兵団(第33師団)には、多数の栃木県民が参加していた。多くの県民がインパールの戦場と、その後の退却路(白骨街道といわれた)で倒れられたことを忘れてはなりません。