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栃木県護国神社

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栃木県護国神社の戦没者慰霊巡拝

解説:東部ニューギニア戦線

 戦時中、兵隊達に「ジャワは極楽ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われたニューギニアの戦いは、大東亜戦争で将兵達がなめたありとあらゆる惨苦が全て凝縮している戦場といわれ、約八千の栃木県民がそこで亡くなられました。

 昭和17年、オーストラリアを拠点とする連合軍の反攻を封じるため、日本の南海支隊がオーストラリア領ニューギニア(現・パプアニューギニア)のブナ地区に上陸、首都ポートモレスビーの攻略をめざしたものの連合軍の反撃によりブナ地区で壊滅。以後、連合軍はニューギニアの海岸伝いにフィリピンをめざして進撃を開始しました。これに対し日本側は新たに朝鮮駐屯の第20師団、宇都宮で編成され、多数の栃木県民が所属していた第41師団(河兵団)・50師団(基兵団)を主力とする第18軍(猛集団)を編成し、ニューギニアの防衛を担当させました。以後、18軍は所在の海軍部隊と協力しつつ、ラエ・サラモア、フィンシハーフェン、グンビ岬、アイタペと、各地で連合軍と激闘を繰り広げました。

 ニューギニア戦の特色は、相次ぐ転進餓え、そしてにつきるとされています。18軍が相次ぐ戦闘と後退の間に踏破した距離はおよそ二千キロメートル。その中には未開のジャングルやセピック河の大湿原、サラワケットやフィニスティール山脈など標高3千〜4千5百メートルの山々が含まれています。更に昭和 19年4月、後方基地であるホーランディアを連合軍に奪われ、その完全な包囲下におかれてからは内地からの一切の補給が途絶えてからは、将兵達は芋・サゴ椰子澱粉や虫や木の根など、あらゆる動植物を口にせざるを得ませんでした。そして、体力の衰えた将兵達にマラリアや赤痢など病気が追い討ちをかけていったのです。

 そうした苦境にありながらも、昭和19年7月、18軍はアイタペの連合軍に総攻撃をかけ、その後もウエワク・山南・セピック地区を長期にわたって確保し、終戦まで戦い続けまし。ニューギニア戦に動員された日本軍約15万名のうち、終戦時に生き残ったのは、わずか1万名余にすぎませんでした。

 これらの将兵がまがりなりにも生き残ることができたのは、ニューギニアの現地住民のおかげです。ニューギニアを舞台とした日本軍と連合軍の死闘は、多数のパプアニューギニア住民を巻き込んで行われました。連合軍による無差別な砲爆撃は広範囲に被害を及ぼし、また、オーストラリア軍による住民の軍夫や兵士としての強制的な徴募は、それまでのパプア住民に対する過酷な差別意識を融和した一方、現在も補償問題を残しています。また、補給もなく、餓え苦しみながら敗走する日本軍が通過した村々や畑は荒らされ、山南やセピック地区における日本軍による「現地自活」も、事実上、村々の畑の作物や財産であるサゴ椰子の供出に拠ったものであることから、住民の生活を圧迫しました。しかし、オーストラリアによる植民地支配を嫌う多くの住民、特にセピック河流域や山南地区の人々などは、餓えた日本兵を村に住ませ、食料を与えるなど、手厚く協力してくれました。このことは栃木県民が長く心に留めておかなくてはならないことです。そうした日本との交流の中で、もっともニューギニアの人々に知られているエピソードが、柴田幸雄中尉と現パプアニューギニア首相、マイケル・ソマレ氏の話です。

カラオ湖畔の学校―柴田中尉とソマレ首相―

 昭和19年、船舶工兵第九聯隊(上陸用舟艇部隊)の柴田幸雄中尉は、現地住民宣撫の任を帯びてウエワク東方にあるカウプ(コープ)に赴任し、カウプ一帯の部族を日本軍に協力させるとともに、白人支配からの独立と日本の通過部隊から村を守るための自治組織(カウト政庁)樹立を指導しました。また、住民への感謝の気持ちと、将来の独立にそなえた教育を志し、酋長の賛同を得て学校をたて、子供たちに数や初歩の日本語、英語の教育を行いつつ、植民地からの独立を説きました。その教え子のひとり、当時8歳のマイケル・ソマレ少年は、後にパプアニューギニア独立運動に身を投じ、1975年(昭和50年)、独立後初代首相に就任した。キャプテン・シバタの教えによって独立することができたと考えたソマレ首相は大使館を通じて、当時宇都宮市で飲食店を営んでいた柴田氏を探しあて、昭和60年、念願の再会を果たしました。


昭和60年、キャプテン柴田と再会したソマレ首相


平成17年、柴田夫人とソマレ首相

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