栃木県護国神社 資料館


ご祭神 戸田忠恕公

治世

 栃木県護国神社ご祭神・戸田忠恕(とだ ただゆき)公は、幕末の宇都宮藩主です。弘化4年に戸田忠温(とだ ただよし)公の六男として誕生しました。前藩主の兄・戸田忠明(とだ ただあき)に後継者がいなかったことから、安政3年(1856)に弱冠10歳で家督を継承し、宇都宮藩主となりました。従五位下に叙され、越前守に任じられました。葵城の号を用いました。

 幕末の混乱期に、幕府が諸侯に政策を諮ると戸田忠恕公は、重臣戸田忠至(とだ ただゆき)(のち高徳藩主)、県信緝(あがた のぶつぐ)(県六石・県勇記)、広田精一(広田執中)と協議して歴代天皇陵修復を建議しました。この大事業は、家臣戸田忠至を責任者として進められ、慶応元年12月までに100基以上の天皇陵を修復いたしました(文久の修陵)。この功績によって、従四位下に叙されました。

しかし、風雲急を告げる情勢のなかで、元治元年(1864)、天狗党事件が起こります。水戸藩浪士による挙兵です。これに宇都宮藩士も関与していたことにより、幕府の嫌疑を受けました。宇都宮藩は、幕府の命を受けて天狗党鎮圧に尽力したのにも関わらず、翌慶応元年(1865)1月に忠恕公は謹慎を命じられ、19歳にて隠居し、藩主の地位を養嗣子の戸田忠友(とだ ただとも)公(のち、当神社の初代神官)に譲りました。さらに幕府は戸田家に棚倉への転封を命じられました。ところが、忠恕公による修陵の功績によって転封は免除されました。

戊辰戦争

明治元年(1868)1月3日、京都における鳥羽伏見の戦いを皮切りに、戊辰戦争が勃発し、新政府軍と旧幕府軍の戦いが始まりました。3月末までに宇都宮藩は新政府に恭順の意を示しました。藩主戸田忠友公は大津で謹慎に処せられており、宇都宮において藩主不在の事態となったので、前藩主・忠恕公が再び藩政をみることとなり、4月、江戸より宇都宮に帰城することとなりました。

江戸では勝海舟が新政府への恭順を示しましたが、それに納得しない大鳥圭介ら主戦派は江戸を脱出して、江戸幕府の精神的拠点とも言える日光東照宮を目指して北上を開始。一方、宇都宮藩は新政府に援軍を要請し、香川敬三ひきいる新政府軍先遣隊が宇都宮を目指して、江戸を発ちました。こうして北関東地域に戊辰戦争の嵐が訪れたのでした。

大鳥圭介ひきいる旧幕府軍は4月16日17日の小山の戦いにて新政府軍に勝利し、宇都宮を目指していました。旧幕府軍は4月19日、宇都宮城を襲撃、宇都宮藩・烏山藩・彦根藩などによる新政府軍は敗退し、宇都宮城は陥落してしまいました。宇都宮の街は戦火につつまれ、宇都宮大明神(現・二荒山神社)を始め、ことごとく焼失しました。忠恕公は、わずかな護衛のみを伴い、錦の御旗を奉じて密かに宇都宮城を脱出し、郊外に避難しました。宇都宮の西北にある鞍掛山には、忠恕公が一晩を明かしたと伝承される洞窟があります。20日夜には館林に逃げ延びました。

23日には、薩摩藩・大垣藩を主力とする新政府軍が宇都宮に到着し、宇都宮城を陣取る旧幕府軍を攻撃し、宇都宮城は奪還されました。こうして無事、25日(27日とも)に忠恕公は宇都宮城に帰還を果たしました。戸田保宅を仮居館としたそうです。

死去と死後

しかし、帰城後、度重なる苦難から発病されてしまいました。療養に務めましたが、帰城の約二ヵ月後(閏4月をはさむ)の5月28日に死去されました。22歳でした。 なお、死去の日付には22日説(『宇都宮市六十周年誌』)と26日説(「戸田家家譜」、『宇都宮市史』)と27日説(『下野の戊辰戦争』)もありますが、当神社には5月28日と伝わっています。6月5日、朝廷より侍従に任じられ従四位上が贈られました。当神社霊璽には「故宇都宮侯贈従四位上侍従忠烈戸田公」とあります。

 戸田家菩提寺である臨済宗英巌寺の跡地(戊辰戦争で焼失して廃絶)に神葬祭にて葬られました。英巌寺跡墓地には、のち明治41年(1908)に、歴代藩主の墓が、東京牛込の松源寺(現在、中野区に移転)より改葬されました。昭和46年2月24日、「宇都宮城主戸田氏の墓所」として宇都宮市指定史跡に指定されました。

 30年後の明治30年(1897)に政府より従三位が贈られました。これを記念して、明治31年(1898)4月に「贈従三位戸田忠恕之碑」(宇都宮市指定文化財・平成5年3月22日指定)が宇都宮城跡に建立されました。この石碑の銘文を以下に掲載しますのでご参照ください。

ご遺品として、戸田光利に与えた自筆の扇や、県信緝に与えた条幅が現存しています。また忠恕公の画像も残されています。

<参考文献>
舟橋一也編 1904『栃木県誌』
宇都宮市総務部庶務課 1960『宇都宮市六十周年誌』宇都宮市役所
小林友雄 1970『宇都宮藩を中心とする戊辰戦史』宇都宮観光協会
宇都宮市教育委員会 1981『宇都宮のいしぶみ』
宇都宮市史編さん委員会編 1982『宇都宮市史 第6巻』宇都宮市
木村礎他編 1989『藩史大事典 2関東編』雄山閣出版
大嶽浩良 2004『下野の戊辰戦争』下野新聞社
藤田好三 2008『宇陽風流郷鏡』しもつけの心出版


贈従三位戸田忠恕之碑

戸田忠恕公碑
元帥陸軍大将大勲位 賜菊花章頸飾功二級 彰仁親王篆額

徳川幕府末造失御夷之道、大藩諸侯起尊王攘夷之論而徳川旧勲諸侯、知有幕府不知有 王室、知之自戸田公始、公諱忠恕、戸田氏、幼名綏之助、以弘化四年生、曩祖忠次、為徳川氏二十四名将之一、五世孫忠貞、事有徳公為老中、封宇都宮食七万八千石、十一世孫忠温叉任老中。公為其第七男、以元忠明無子嗣立、叙従五位下任越前守、文久二年、松平慶永為幕府総裁、政令一新、使列侯直言時務、公与宗臣戸田忠至、及縣信緝、広田執中等、胥謀建議曰、方今外夷跋扈不知底止、禦之之術有強兵、強兵在振士気振士気莫若反始報本起忠孝之心、而自鎌倉幕府執政七百年、中今皇陵荒廃或不知所在、幕府闕典莫大焉宜修理之以明反始報本之道、海内臣民忠孝之心自此起矣、士気自此振矣、兵自此強,尚此議而行、忠恕与一藩士民請任其事、幕府嘉納奏之朝廷蒙允可、公威奮奉命、授意忠至督工事、属富豪川村富之、馬籠惟長弁財用、忠至深体公意、畿内及丹後諸侯、躬親探検徴書史問古老必確其証、此歳九月起工神武陵先成、朝廷下 詔嘉之叙公従四位下、忠至従五位下任大和守、凡閲五寒暑、慶応元年十二月、一百余山陵皆既修理、置陵戸修祭供復王典之旧、明年正月詔四海、忠恕夙重忠孝修復先陵、上成皇家追遠之孝下賛幕府奉上之誠、朕不勝欣喜、因贈先祖忠次従四位下、賜公御剣忠至御馬、億兆聞之感泣莫不起忠孝之心者矣、先是水戸亡徒嘯集各地唱尊攘、幕府命公勦之、公以其名正依違未俄進撃、幕府疑其党之譴公退隠、削封二万石移棚倉而未往、会大将軍入朝、朝廷諭旨使復旧封、蓋以修陵之功償其罪也三年王政復古、詔公入朝未発伏見変起、王師東下命公復聴藩政、時徳川氏逋賊出没近郊、遂来襲宇都宮、事発忽卒守備未整、乃火城避賊鋒、既而王師来集、与藩兵戮力撃之遂復城、此役公冒炮火、暴露原野俄罹癘不起、実明治元年五月二十二日也、年僅二十有二、朝廷哀悼贈侍従及従四位上、東北乱平録功加一万石、詔曰孤立賊中克決方向、以尽藩屏之任其功可嘉賞、後立祠宇都宮、祀公及戦死此役者焉、室戸田氏同宗光則女無子、公隠退支族忠友入立、至此請朝廷、仍以忠友承先祀三十年特旨贈公従三位、旧臣及受恩者欲建碑不朽公功、朝廷聞之又贈金若干助之、於是益感激促建立、遂来徴余銘、余曰、公之建白修陵、余旧君板倉勝静在老職実納之、故及其竣功亦蒙狩衣之賞、余因知其事深復公以勲旧諸侯、率先勤労王事賛幕府奏上之誠也、他日徳川氏之獲罪朝廷蒙寛典之恩者、安知非知公与有力乎哉銘曰

  嗟公修陵 廃典惟挙 不独為朝 幕職惟補 爰勒豊碑 于厥旧郷
  偉勲赫爍 永照無疆 北仰晃山 天半〓〓 神乎有知 欣慰何若

明治三十一年四月
東宮侍講正五位勲四等 三嶋 毅撰
勅選議員正四位勲三等 金井之恭書

(〓〓は「山」冠+「乍」、「山」偏+「咢」)


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