東部ニューギニア戦線慰霊巡拝案内−ウエワク地区−
栃木県護国神社資料展示室 中山郁2:東部ニューギニア戦線
昭和17年、ラバウルを占領した日本軍は、引き続きオーストラジアを拠点とする連合軍の反攻を封じるため、オーストラリアの委任統治領であったニューギニアの首都、ポートモレスビーの攻略を目指しました。当初は海路から、後に陸路オーエンスタンレー山脈を越えて進攻した日本の南海支隊は、米豪連合軍と激しく戦いましたがブナ地区で壊滅。以後、マッカーサー将軍の率いる連合軍はニューギニアの北岸伝いにフィリピンをめざして進撃を開始しました。これに対し日本側は新たに朝鮮駐屯の第20師団(朝兵団)、宇都宮編成の第41師団(河兵団)・第51師団(基兵団)を主力とする第18軍(猛集団)を編成して二ューギニアの防衛を担当させました。以後、第18軍はマダン・ウエワク地区に進出した第四航空軍や海軍部隊と協力し、ラエ・サラモア、フィンシハーフェン、アイタペと、各地で連合軍と激闘を繰り広げました。東部ニューギニアは昭和18年春から19年にかけて、日本軍と連合軍の主力がぶつかりあう、最大の決戦場となったのです。昭和19年4月、米軍はウエワク後方のアイタペ・ホーランジャに上陸、第18軍は補給路を完全に断たれて孤立しましたが、同7月から8月にかけてアイタペの米軍に決戦を挑み (アイタペ作戦)、これに敗れた後もウエワク周辺や内陸部で現地自活を行ないつつ、米軍と交代し植民地奪回を目指す豪州軍と、終戦まで戦い続けました。
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