平成17年度 パラオ諸島慰霊巡拝
(つづき)2:ペリリュー島にて
ペリリュー、アンガウル巡拝に用いたスピードボート。これからコロール島を出発するところです。
コロール出航直後、船旅に心ときめき、娘のようにはしゃぐ御遺族方。が、このあと海が大荒れとなり、船内は凄まじい地獄と化してしまいます。
凄まじい航海を終え、やっとペリリューの民宿で一息つきました。みなさん、ぐったりされています。なお、航海の様子は、とても撮影できる状態ではなかったので、あしからず。
ペリリュー島南端の、日本政府が建立した西太平洋戦没者の碑。今回はアンガウル島に行けなかったことから、ここでペリリュー島、アンガウル島、海上戦没者の合同慰霊祭を行いました。
西太平洋戦没者の碑前に祭壇を設け、ペリリュー、アンガウル地区戦没者並びに、下記の御英霊のお祀りを行いました。
(あいうえお順)
陸軍曹長 桜井年ニ命(アンガウル島)
海軍上等工作兵 鈴木初一郎命(海上戦死)
陸軍中尉 高垣勘ニ命(マカラカル島)
陸軍曹長 戸井田章命(ペリリュー島)
陸軍軍曹 宮路之久命(アンガウル島)
また、都合により巡拝に参加できない方々からの御依頼によって、ペリリューで戦死された石井星太郎命、アンガウルで玉砕された高村良男命もお祀りし、後日、現地でお祓いした神札を御遺族にお届けしました。
現地慰霊祭神札。慰霊祭後、各家族に慰霊神札を授与いたします。
祭壇には御英霊の好物や郷土栃木の酒、米、水、在りし日のお姿や現在の家族の様子を写したパネルなど、思い思いのものがお供えされます。ペリリューで戦死された1万名、アンガウルで玉砕された1300名の日本兵一人一人が、こうした家族とのつながりをもった、かけがえのない方々であったことを忘れないでください。それはまた、パラオ島民も、オレンジビーチで倒れた米兵も同じことです。
ペリリュー島、米軍上陸地点。同行してくださったOWS副会長の倉田洋二さんから説明を受けました。倉田先生はパラオで現地召集を受け、凄惨なアンガウル戦を生き抜かれた方です。
ペリリュー飛行場跡に残る95式軽戦車。昭和19年9月15日、上陸した米軍に突入し、破壊されたものです。61年前、この戦車の周囲には、日本兵の無残な遺体が散乱していました。
海軍西カロリン航空隊司令部跡。この島を襲った凄まじい砲爆撃を偲ばせます。
飛行場跡のジャングルに眠る零式艦上戦闘機
零戦を訪れた御遺族
日本軍の防弾施設を利用した資料館。
館内には、島内で見つかった遺物が展示されています。
島内各所には米軍の上陸用舟艇や水陸両用戦車なども残されています。
大山地区の日本軍砲兵陣地
入口には砲弾が散乱していました。
大山地区の海軍砲と、その後ろにある洞窟。日本兵はこうした洞窟を拠点として、米軍を迎え撃ちました。
大山を目指す御遺族一行(戸井田ファミリー)。中央を歩く戸井田さんはこの島でお兄様を亡くされています。
大山登山道脇にある日本軍慰霊碑、台座周辺には鉄帽や飯盒、手榴弾などが置かれていた
大山山中の埋没壕。火炎放射器で焼かれた跡が残っている。米軍は洞窟陣地を潰した後、日本軍に再利用されないために、遺体ごとブルドーザーで埋めていきました。島内にはそうした未発掘の壕がまだ沢山あり、当然、その中には将兵の遺体がのこされています。
大山山頂で記念撮影
日本人よりも日本語が上手いガイドのカイポ君。小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』にも登場していました。
高垣さんと桜井さんは親族同士で兄とおじさんの慰霊に来られました。今回の慰霊団の中核部隊といえる存在です。
坂本さん、高野さん、大村さんは3人兄弟。父上をトラック島で亡くされていますが、今回はアンガウルで戦死したおじさんの慰霊です。
鈴木さん、熊木さんファミリーは元気一杯のムードメーカー。鈴木さんは父君出征時には胎内に居たことから、父君にお会いしたことがないそうです。
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