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栃木県護国神社の戦没者慰霊巡拝

平成17年度 フィリピン戦没者慰霊巡拝記録

(つづき)

平成17年6月15日 3日目 晴

4:00 起床
5:00 空港へ移動。搭乗手続き開始。
     空港のボディチェックがかなり入念に行われる。
06:10 マニラ発(セブ・パシフィック航空)
     飛行機は空席が見あたらない程の混雑。
07:30 定刻通りタクロバン空港着
     タクロバン空港は空港というより飛行場。着陸した飛行機は、目一杯の逆噴射でブレーキをかけ、滑走路の端でUターンするほどの狭さ。
08:10 ホテル着(レイテパークホテル)
     その後レストランにて朝食(アメリカンビュッフェスタイル)
9:30 ホテル発。パロへ
9:50 パロ着。マッカーサーランディングメモリアルパーク見学
10:30 ドラグ経由にてホリタへ
10:50 ホリタ着。福知山第二十連隊慰霊碑参拝。
     トイレ休憩。町役場のトイレを借りる。
11:30 ブラウエン飛行場跡着。高千穂降下隊慰霊碑、第十六師団第九連隊慰霊碑参拝。
     地元の人が集まって来る。
11:50 ダガミ着。第十六師団慰霊碑参拝
12:25 パロ着。「十字架山」、パロ大聖堂見学
     大聖堂隣の公園でお弁当の昼食。きんぴらごぼうや鯖の塩焼き等の日本食。
13:00 パロ発。
13:50 カリガヤ経由にてリモン峠へ
14:20 リモン峠着。野砲第一聯隊慰霊碑、工兵碑参拝
15:00 バレンシア経由にてオルモック着。
     「コンクリートハウス」見学。カルロタヒルズの岐阜県建立のオルモック方面慰霊碑参拝。非常に日差しが強い。
16:00 ホテル着。(オルモックドンフェリッペホテル)
16:30 慰霊祭の神饌購入の為、市場へ。
     混沌とした雰囲気。独特の熱気と日本人を見る目が刺さる。実際お釣りを分捕ろうとした者もいたようだが、現地のガイドさんが察知し事なきを得る。
18:00 夕食。(フィリピン・オルモック郷土料理)
     野菜が出ないためか、やや調子が悪い。ただ豚の煮込みは美味しい!ラフテーのようであった。 バロット登場。アヒルの孵化寸前の卵でかなりグロテスク。少しかじると、蟹みそのような味がした。
19:00 明日の慰霊祭の打ち合わせ。
21:00 就寝

 三日目は朝四時起き。レイテ島に移動のため、朝一番の飛行機に乗らなくてはいけないため。まだ暗いマニラ市内を空港へ。車も多い。マニラ空港国内線乗り場は朝五時過ぎにも関わらず、混雑している。どうやらボディチェックが長いようだ。実際「お前ピストル持っているか?」と職員から聞かれた。
 我々はタクロバン行きセブパシフィック航空の飛行機に搭乗。最後の搭乗だったので機内はすでに満席状態だった。定刻通りに出発し、約一時間のフライト。タクロバン空港に着陸とともに、強烈なエンジンの逆噴射!急激なブレーキがかかる。そのまま滑走路をUターンして、タラップが付けられる。滑走路が短いためにUターンが必要らしい。


タクロバン空港にて(飛行機はセブ・パシフィック航空機)
 ホテルで朝食を取るためバスへ。レイテ島で使用するバスは、古い中国のマイクロバスであった。マニラのバスより狭いが、充分に冷房は効いている。
朝食後、レイテ島慰霊巡拝へ出発。まずはパロの「マッカーサーランディングメモリアルパーク」へ。文字通りマッカーサーがレイテ島へ上陸した地点にブロンズ像が建っている。実際のマッカーサーの二倍くらいあると思われる。この様に堂々と上陸したのであろうか?
 その後、ドラグ経由にてホリタへ。第十六師団福知山第二十連隊慰霊碑参拝。ホリタの町役場の敷地内にあった。町役場のトイレを借りて休憩。町役場の職員と神社のキャラクターの写真を撮る。
 ブラウエン飛行場跡へ。この地はレイテ島戦において、この飛行場の奪還作戦・和号作戦によって第二十六師団と高千穂空挺隊が落下傘攻撃を加えた地点である。しかし一時的にこの飛行場を奪還するも、米軍のオルモック逆上陸によって反撃どころではなくなり、攻撃を中断。オルモック救援のため、再びブラウエン飛行場を放棄しなくてはならなかった飛行場である。
 この地の高千穂降下隊慰霊碑、第十六師団第九連隊慰霊碑参拝。付近の住民が集まってくる。お供え物やお菓子を子供達にあげる。みんな素直そうな子供達であった。レイテの子供はみな純粋な瞳をしていて、この地を慰霊で訪れる日本人の到着を待っているようだ。


高千穂空挺隊慰霊碑

第十六師団第九聯隊慰霊碑
 ダガミへ移動。第十六師団慰霊碑参拝。中学校と役場の間にひっそりと建てられた慰霊碑であった。
 パロに戻って十字架山とパロ大聖堂見学。十字架山近郊は第十六師団と米軍上陸部隊がこの山の頂上をめぐって激戦となった地点である。その麓に非常に立派な教会が建っている。ここでお昼休憩。マニラの日本食レストランのお弁当を拡げる。きんぴらごぼうや鯖の塩焼き等を堪能する。


パロより十字架山山頂を望む。山に木々が少ないのは砲弾の影響が今も残っているからである。
 その後、リモン峠に移動。リモン峠はレイテ戦における最大の激戦地である。ここの戦闘を担当した第一師団は、レイテ島に上陸したときの兵力は約一万二千人。それがたったの二ヶ月で約二千七百人に激減している。(終戦後この師団の生き残りの兵士数は約八百人である。)これだけの犠牲を払いながら、リモン峠を約五十日間守り通したのである。
 はたしてその地は戦闘があったのかというくらい、穏やかでのどかな時間が流れていた。辺りの山々をみると所々木が生えていない。戦争の砲弾で高い木が根こそぎ爆破された名残ということであった。爪痕は六十年が過ぎた今も残っていた。
 この地にある、野砲第一聯隊慰霊碑、工兵碑をそれぞれ参拝。やはり子供達がそれぞれ集まってきた。


野砲第一聯隊慰霊碑

工兵碑
 その後オルモックへ。オルモック市内にあるコンクリートハウスを見学。ここはオルモックに逆上陸した米軍が進軍を開始し、この建物に籠もった日本軍(第二十六師団立石大隊)と激戦になったところ。米軍は壕を一つ一つ火炎放射器や手榴弾をもって虱潰しに廻り、日本軍を破ったと言われている。当時のままの姿で佇んでいるこの建物を見たとき、戦争の恐ろしさを改めて認識した。


オルモックコンクリートハウス。砲弾の跡が生々しく今も残る。
 オルモックのカルロタヒルズという所に、岐阜県の有志の方々が建立した慰霊碑を参拝。高級住宅街にあり、管理が行き届いていた。高台にあってオルモックの町並みを一望できる。


カルロタヒルズ慰霊碑
 参拝の後、オルモックのホテルへ。私の中で思っていたよりいいホテルだった。エレベーターは壊れていたし、ペソとペソの両替も「細かいお金が無い」と言って出来なかったが。部屋からはオルモック湾を望む事が出来る。オルモックはレイテ島における日本軍の補給基地であった。しかし戦いの末期には米軍がオルモックへの逆上陸に成功する。これによってレイテ戦はほぼ米軍勝利に決し、補給基地を失った日本軍は絶望的な自活自戦の戦いへ追いやられていった。オルモックへ上陸し戦いに挑む日本軍の兵士はなにを思ったのだろうか?またこの港を覆い尽くす米軍の船団を見たときは?その心の内は計り知れない。


オルモックのホテルよりオルモック湾を望む。
 到着後、明日の慰霊祭の準備のため市場へ。まさしく混沌とした中に、この地の人々の熱気が伝わってきた。ただ日本人を見る目が刺さる。買い物をしている遺族の方の後ろに怪しい青年が近づいて財布を覗きこんでいる。現地ガイドの方が、注意を促して事なきを得た。近くのコンビニでミネラルウォーターを買う。ホテルで買うと一本40ペソ程だが、
一本8ペソで購入できた。8ペソは16円である!初めて物価の安さを身をもって体験できた。
 ホテルレストランで夕食。こちらに来てから、野菜になかなかありつけないので、やや調子が悪い。この日の夕食には野菜は全く出なかった。バターを頼んでご飯に混ぜ、日本から持ってきたふりかけをかけて食べる。またマンゴージュースを頼んだが、絞ったマンゴーに更に砂糖を加えたジュースが出てきた。非常に甘すぎる一品であった。ただ豚の煮込みは、豚の角煮(さらに言えば沖縄のラフテーか)ようで美味しい。
 バロットが登場する。これはフィリピン全土でみられるもので、アヒルの孵化寸前の卵である。殻を破ると雛の形そのままのものが出てくる。まさにグロテスク!しかしおそるおそる口に入れると、なんとカニミソのような風味が拡がる。摩訶不思議な味である。
 その後、慰霊祭の打ち合わせをして就寝。


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