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栃木県護国神社の戦没者慰霊巡拝

平成17年度 フィリピン戦没者慰霊巡拝記録

(つづき)

平成17年6月16日 4日目 曇時々晴

6:30 起床
7:00 ホテルレストランにて朝食
8:00 ホテル発。カンギポット山へ
9:15 カンギポット山遙拝所到着
     カンギポット山方面戦没者慰霊祭斎行(斎主 宮澤さん)
     宮澤さんのお祭りに強い衝撃を受ける。
10:30 リモン峠慰霊碑前到着
     リモン峠方面戦没者慰霊祭斎行(斎主 宮澤さん)
     穏やかな高台。風が心地よい。こんな所で戦争があったのだろうか?と考えていた。
11:45 リモン峠で昼食
     サンドイッチのお弁当。特大サイズのサンドイッチだった。
12:55 リモン峠南の小学校表敬訪問
     文房具やお菓子をプレゼント。お話や歌のお返しがあった。
     授業見学もあまり授業にならず。子供達は神社のキャラクターに群がっていた。
13:50 小学校発
     サマール島に上陸してタクロバンへ
16:00 ホテル着(レイテパークホテル)
     その後休憩。
18:00 ホテルレストランで夕食(アメリカンビュッフェスタイル)
     ホテルのサブマネージャーと仲良くなる。F1が大好きで、話しが盛り上がる。
21:30 就寝

 六時半に起床し、カンギポット山へ移動。カンギポット山は日本の補給基地であったオルモックに米軍が逆上陸し、レイテ決戦の勝敗がほぼ決した後、レイテ島の残存部隊が目指した山である。日本軍は「歓喜峰」と呼んだ。あの山に行けば友軍たくさんいる。とみなで励ましあいながら、しかし傷つき食料も無い中、未開のジャングルをその山を目指し歩いたという。カンギポット山周辺には、昭和二十年三月ごろ第一師団を始め、第二十六師団、第六十八旅団等レイテ戦に従軍した約一万人強の将兵が陣を張っていた。しかし終戦後この近辺より出てきた者は誰一人いなかった。半年も経たないうちにこれだけの兵士が、文字通り露と消えてしまったのである。
標識も看板もない民家の脇を通って遥拝所へ。たくさんの慰霊碑の向こう側に尖った特徴的な山が見えた。感慨深い気持ちになる。すぐに慰霊祭の準備へ取り掛かる。斎主は宮澤さん。宮澤さんのお祭りに衝撃を受ける。護国神社の神職でしか出来ないお祭りをされていた。自分の中で慰霊祭の価値観が変わったお祭りであった。


中央、特徴的な山頂のカンギポット山。
 後にリモン峠へ。途中所々道路の工事をしていたが、工事をしている人は誰もいない。ただ少年たちが交通整理のようなことをしていた。普段もこんな事をするのだろうか?さらに途中の山道のカーブにて、後方の非常口が突然開いてしまった!!大事に至らず済んだが、吃驚した。
 リモン峠の山頂の高台にある第一師団慰霊碑の前で慰霊祭を行う。斎主は宮澤さん。ここは風も心地よい。カリガラ湾や、遠くはカンギポット山がうっすら望むことが出来た。日本軍と米軍がこの山頂で激突し、リモンの戦いが始まった。ここがそんな激戦地とはとても考えられなかった。


リモン峠第一師団慰霊碑。この高台近辺に第一師団第五十七聯隊本部があったと思われる。
 ちなみに隣にあった土台のようなものも慰霊碑である。碑文は剥され、慰霊碑にも穴が開いている。一説には、山下財宝目当てのコソドロが壊してしまったそうだ。財宝がこんな所にある訳なんて全くないのに。


第十六師団の慰霊碑と言われる。中央に穴が空いているのが確認できる。
 慰霊祭の後、ここの住民の方がヤシの実を取って振る舞ってくれた。ヤシの木にヒョイとよじ登り、次々に実を落としていく。そして大きな鉈を使って実を割り、中のジュースを戴いた。さっぱりしていて、ほのかにヤシの甘みもあり美味しいものであった。


リモン峠の人々と記念撮影


慰霊碑のある高台よりカリガラ湾を望む


慰霊碑のある高台から南西方向を望む。この方角にカンギポット山がある。
今もこの地に幾多の御英霊が眠っている。
 その後、バスの中でお弁当の昼食。オルモックのホテルで作ったサンドイッチであったが、特大サイズで食べ切れなかった。ただ、私はフィリピンの食パンが口にあった。パサパサごはんには辟易していたが、パンはしっとりしていて美味しかったので、フィリピンではパン中心に食べていた。
 昼食後に地元小学校へ表敬訪問の為、移動。着くと待ちわびていたように子供たちが飛び出しあっという間にバスを囲む。教室に案内され、こちらから文房具等の進呈。お礼には昔話や歌の贈り物を受ける。教室内はとにかく蒸し暑い。クーラーの効いた教室で勉強する今の日本の小学生は、すぐに体調不良になってしまうだろうなぁ。と思った。
 その後は授業を見学のはずだったが、子供たちは教室に入らずはしゃいでいた。先生も別にそれを咎めない。私は神社のキャラクター人形を子供たちに説明し、この小学校の先生だった方に、(我々が訪れるので遊びにきたそうだ)人形をもってもらい写真を撮る。みんな本当に純朴で逞しい。別れの際はずっと手を振ってくれてこちらも嬉しくなった。


訪問した小学校の子供達
 そしてホテルへ。その前にサマール島に少しだけ上陸する。日本政府の援助でマルコス大統領が架けたL字型のサン・ファニーコ橋を渡る。
 レイテ島へ戻って、タクロバンのホテルに到着。休憩後アメリカンビュッフェスタイルの夕食。そこでホテルのサブマネージャーとF1の話で盛り上がる。お互いメールアドレスを交換。ただ、自分の英語力の無さを実感。言いたいことの半分すらも話せない。あちらは「そんなこと気にするな。あなたと会えた事がハッピーだよ。」と言ってくれたので有り難かった。しかも明日は早いのに、「一緒に朝食を取ろう」と約束してもらった。 部屋へ戻って、ルソン島へ帰る為の準備をして就寝。


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