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東部ニューギニア戦線慰霊巡拝案内−ウエワク地区−

栃木県護国神社資料展示室 中山郁

5:ウエワク地区の戦跡・巡拝場所

東部ニューギニア戦とウエワク
 東セピック州の州都ウエワクは、先の大戦中、第四航空軍や海軍の第九艦隊の司令部が置かれ、また18軍の貨物廠や病院が設けられるなど、東部ニューギニアにおける日本車最大の拠点でした。昭和18年1月以降、第20師団・第41師団が進出したのをはじめ、以後22次にわたる輸送船団によって多数の部隊や膨大な数の軍需品がウエワクに揚陸されました。これらの兵員や物資は、海上トラック(小型船)や大発(上陸用舟艇)などにより、マダン・フィンシュハーフェン、ラエ・サラモアの前線に運ばれていったものです。しかし、昭和18年夏より激化した連合軍の空襲により、入港する輸送船はもとより飛行場、軍需物資が大きな被害を受け、補給基地としての機能は次第に低下していきました。昭和19年、マダン方面よりセピック河を越えて撤退してきた部隊を含め、約5万5千名の日本車がウエワクに終結、アイタペに向かって進撃していきました。その数ヵ月後、襤褸のような敗兵たちがウエワクに戻り、ここからセピックや山南地区の自活地に分散していきました。

 補給物資が尽きたのちも、日本軍はウエワクを最後の海岸拠点として守っていました。昭和20年5月、豪州軍はオーム岬方面からウエワクに侵攻、守備に当たっていた日本軍(航空部隊、補給部隊中心)を南方に圧迫し、市内を占領しましたが、ウエワク南方のアレキサンダー山脈内では、終戦時まで日豪両軍の戦いが続けられました。日本降伏後の9月、セピック方面やアレキサンダー山脈付近で終戦を迎えた日本車は、ウエワクにおいて武装解除をうけたのち、ムッシュ島の収容所に向かいました。

ウエワク地区の戦跡・巡拝場所

 1)平和公園
 2)ウエワク半島
 3)阿部岬(ボラム岬)
 4)飛行場跡
 5)松の岬(モエム岬)
 6)洋展台
 7)コイキンマリック観音像
 8)ブランデイ高校
 9)ウオム岬


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