注意点

◆コース状況

 ココダ・トレイルのブッシュ・ウオ―キング(登山)はオーストラリアにおいては、極めてメジャーなコースであり、毎年多くのパーティーが歩いている。さらに、山中各村をつなぐ道として、村人達に利用されている、いわば現役の生活道でもある。道の状態は極めて良好であり、日本のマイナーな登山道などよりも、よほどよい。道自体に危険な箇所はなく、イオラ渓谷の巻き道の一部を抜かせば、道幅も広いところが多い。但し、川や沢の徒渉は、雨後の増水に注意しなければならない。とくにブラウン川は増水すると危険と思われる。ゆえに、雨季の登山はやめたほうがよいであろう。因みに、雨季にフィニスティール山脈を撤退(ガリ転進)した日本軍は、スコール後の急激な増水のため、多数が山中で犠牲となっている。

 なお、道の状況はよいが、日本の山のようにやたらと道標がたっているわけではない。標識やミッチェル(赤テープ)等は寧ろ少ない方である。ゆえにガイドは必要であろう。

◆ガイド・現地の人々


カーゴ・ボーイのシイノ氏
 最初から最後まではだしで歩いていた筆者はニューギニアの専門家ではないので、自身が見て、聞いて、感じたことしか書けないが、その範囲で言うならば、我々の参加したココダ・トレック社のガイドやカーゴボーイー達は非常に頼りになる、気持ちの良い人達であった。はだしとなり、足指で地面を掴むように歩く姿を見ているだけでも安心感があった。トレック参加のオーストラリア人の三分の二の方はボーイを頼み、荷物を軽くして歩いていた。

 彼らの多くはソゲリ・イオリバイワ・メナリ・エフォギ・エローラといったココダ道沿いの村落出身であったが、他にもボーイ長がブナ、我々の祭具を分担してくれたスタンレー氏はポポンデッタ、さらにハイランド出身者もいた。彼らはキリスト教を信仰しているが、ココダ道沿いの出身者はSDA(セブンズデー・アドベンチスト教会)を、他は聖公会やカトリックであるという。厳格に信仰を守る人もいたが、交流する内に、呪術や呪医への知識とシンパシーもかいまみることができた(その辺りについては、(財)国際宗教研究所宗教情報リサーチセンター刊『ラーク便り』23号で若干触れた)。


須原神職とカーゴ・ボーイ達
 彼らとコミュニケーションを取るためにも、簡単なピジン会話を勉強して行くとよいであろう。ボーイの中にはピジン語しか話せない人もいるし、個人的には、英語より、ピジンで話した方がより、親しみを持って頂けたという感触があったからである。ピジンを使う我々を、ボーイ達は「ワン・トーク」と評してくれた(「ワン・トーク」とは、もともとは同じ部族語を共有する部族の仲間という意味だが、我々の場合、ピジンを使うという意味で、オーストラリア人より近しいという意味であったろう)。

 また、一緒の地面に座り、話し、食べる(ワンタイム・シッダン、ワンタイム・トクトク(ト―キム)・ワンタイム・カイカイ)のも良いであろう。山南地区(ウエワク南方)やセピックから辛うじて生還した日本兵の手記には、大抵これが出てくる。彼らはこれができたから食べさせてもらえたのであり、逆にいえば、これが白人植民者と日本人の違いとされたのでもある)。因みに、当方の観察によると、オーストラリア人トレッカーはボーイ達と仲良くしながらも、やはり一線を引いたところがあるし、ボーイ達もそうであった。

 但し、日・豪ともに肝に銘じておかねばならないのは、ニューギニアの人々が、彼らが預かり知らぬ近代国家間の抗争に巻き込まれ、双方から損害を受けたことである。連合軍の激しい砲爆撃は、広範囲に破壊の手を及ぼすものであった。また、日本側についた村々へ圧力をかけるための空襲も行なわれた。戦後、オーストラリアは戦争被害の補償をしたが、強制力を以って豪軍に動員されたパプア兵や担送夫への補償は、いまだ未解決の問題を抱えているという。また、戦後も豪州の植民地支配が必ずしも歓迎されていたわけではないという事情もある。

 日本側においても、終戦時、まがりなりにも1万弱の将兵が山南やセピックから出てこられたのは、ニューギニアの人々が食べさせてくれたからである。とくに、この地域における日本軍とニューギニアの人々の関係は全般的に良好で、彼らとの交流は、最後まで責任を取りつづけた第18軍司令官の安達二十三中将の存在とともに、無明の闇に閉ざされたような東部ニューギニア戦において、唯一のともしびとなっている。また、ニューギニア独立の父で、現(平成16年現在)首相のマイケル・ソマレ氏が最初に教育をうけたのは、自活のお礼として船舶工兵9聯隊の柴田幸雄中尉(キャプテン・シバタ)が開いた学校であった(柴田さんが営んでいた食堂「末広」は、今も宇都宮市西2-1-5に健在で、奥様が守っている)。

 ただし、東部ニューギニア各地での日本軍の防戦と飢えながらの敗走は各地域に多大の損害をもたらし(今回のツアーのボーイ長はブナ出身で、戦争で村が完全に「バカラップ」(ピジン語で壊れるの意)になったと語っていた)、また、日本軍が現地人の中での自活を試みたセピック・山南地区においても、破れたとはいえ数万の軍を養うのは、村々には大きな負担であったし、チンブンケ事件やルキニ事件のような悲しむべき衝突もあった。また、豪軍側の現地民遊撃隊の犠牲になった日本兵も多く、更には終戦後、日本軍に協力したカラオやマンバ、ソコペンなどの酋長達が、オーストラリア側によって処刑、または処罰されるという悲劇も起こっている。戦争による惨劇については、とかく他地域のパターンを別の地域に充てはめようとする傾向になりがちだが、ニューギニアにはニューギニアの状況と悲劇があった。先入観にとらわれず、けれども、ニューギニアに入るのなら、必ず自身で調べ、見据えて頂きたいものである。それが最悪の戦場で犠牲になった全ての方々への、一番の鎮魂となろう。

 我々の場合,山中2・3日してからニューギニアのボーイ達との接触が多くなり,中盤以降は毎日のように一緒に座り込んで話していた。しかし、日本軍の進攻によって損害を受けた記憶のある各村々では当初、我々を幾分警戒の眼で見ていたという。「あいつらはいいやつらだ」と触れまわり、その眼をほどいてくれたのは、山の中で仲良くなったボーイ達であったということを、帰国後に聞いた。彼らの気持ちが嬉しい。

 昔のことを踏まえつつも、さらに、出会った人々との繋がりを大事にしながら山を歩いていただければ幸いです。

栃木県護国神社