慰霊祭の場所選定


 今回の旅は、オーストラリアのツアーに参加させていただく形となった。大東亜戦争期についていえば、後述するような歴史的背景があるため、豪州の方々とココダ道を歩くということに非常な意義を見出していたものの、一方で、どういった感情が持たれているのか、聊か気にしてもいた。


明るく、人なつこいオーストラリアの友人たち


 結果からいえば、全般的にオーストラリア側の参加者諸氏は、ことばもろくにできない我々に対して親切に、フランクに付き合ってくださった。我々を暖かく見守り、ココダの戦いのなんたるかについて伝えようとしてくれたフランク社長。英語が苦手な我々の前に、神の配材の如く現れ、我々を助けてくれた日本語ぺらぺらのケイト嬢と退役陸軍中佐のお父様、御茶目なティム氏、バテながらも常に明るい笑顔を絶やさなかったジム氏、サンダカン・ロード慰霊巡拝の練習で参加したペリー氏など、独特のオーストラリア英語とともに、彼らの大らかな性格に触れ、ひとつの道をたどる喜びをともにしたことは、生涯の思い出となろう。しかし、豪州側に戦時中の日本軍に対する嫌悪感が、高齢者を中心に残っており、日本で耳にしていたその感情を、間接的ながら感じたのもこの旅路であった。

 マレー・シンガポールやラバウルで日本軍の手に落ちた豪兵は、その後、各地の捕虜収容所で、極めて惨めな状況におかれ、中にはラーク・フォースやサンダカン収容所の捕虜達の例に代表されるように、さらに悲劇的な最後を遂げた方が、余りにも多かったのは事実である。また、とくに昭和18年以降、東部ニューギニアにおいて日本軍の捕虜になることは、しばしば死と同義であった。自身が飢えと病に苦しんでいた日本側では、多くの場合、捕虜を「処分」してしまったからである。捕虜観念の相違が著しかったとはいえ、これは明確に国際法違反であった。

 この、政府と軍部の誤りは、前線の将兵が償わされることになった。戦後、いわゆるB・C級戦犯として、多くの方々が法務死を遂げられたことや、終戦直後、豪軍管理下の日本兵収容所での極めて手荒いとり扱いが知られている。さらに、ニューギニア戦においては、米、豪軍側にも無軌道な行為が見られ、捉えた日本兵の即時刺殺、捕虜や動けない傷病兵の殺害、遺体の損壊、撃沈された輸送船から投げ出された漂流兵に対する執拗な銃撃などが数多く記録されている。このHPトップに掲げたオーストラリア兵の言葉にあるように、捕虜にとられること自体が、ある意味で極めて幸運なことであったのである。


イオリバイワ地区における慰霊祭
斎主は須原権禰宜
(アンドリュー撮影)


 我々が慰霊祭をすること自体について、フランク社長は非常に協力的であり、行動時間をロスするにもかかわらず、祭典の時間をとってくれた。なにより、祭典の最中、オーストラリア人参加者の方々も進行を見守り、拍手を以って労を報いてくれたのがうれしかった。しかし、慰霊祭の祭場の選定について、フランク氏と話し合いをしたときに、ブリゲートヒルやイスラバ、そしてココダの豪州側の碑前でするのは避けて欲しいと告げられた。それが本国の高齢者、とくに退役軍人の方々を刺激する心配があるということであった。ココダ道は対日戦争における苦難と勝利のシンボルでもあるからである。我々の慰霊祭は日本の英霊だけではなく、パプア人や豪州将兵に所縁のある地でも行なえればと考えていただけに、これは少し残念であったが、やむを得ない現実でもある。かくしてイオリバイワ以外での慰霊祭は、主に日本軍にゆかりのある場所で行なうことになった。だからといって、祭祀の精神がかわる訳では、勿論、ない。

栃木県護国神社